私大は、入学辞退者の学費だけでなく、「入学金」も返そうよ
本日はセンター試験の1日目だった。
受験生の皆様、関係者の皆様、おつかれさまでした。
さて、今日の話題は、
私立大学は、入学辞退者から入学金を不当に搾取しているのでは?
という問題提起である。
例えば、ぼくの通っていた高校では、受験生の保護者に対して、
「国公立を目指す場合は、30万円捨ててください」
という指導をしていた。
えっと驚いてしまうような発言だが、ここでいう30万円とは、私立の入学金を指している。
つまり、国公立の合格発表前に、私立の入学金納付期限が設定されているので、国公立に受かろうが受かるまいが、最後まで選択肢を多く持ちたいなら、とりあえず私立の入学金は納入しなければならないのだ。
浪人がさせられないなら、そういう判断になる。
その状況は、ぼくが高校生の頃からなおもって変わらない。
(もし、変わってきている状況があったら、知りたいくらい)
国公立も含めて受験する子どもたちは、入試がぜーんぶ終わってから、どこに入学するか決めて、そこに必要経費を入金しよう、というまっとうな手順を踏めないのである。
さらに国公立に入学する場合は、なぜか30万という大金を捨てねばならない。
大学で働いてみてさらに問題だと思ったのは、その金額の高さに釣り合わない、中の人の意識の低さだ。
先輩に「こういうの、よくないと思うんです」と言ってみたことがあるのだが、「まあ、入学のための準備の手数料として、しょうがないよね」程度の反応だったのである。
この先輩が特別ということはなく、この問題に対する中の人の意識は、大抵この程度であろう。
一言でいうと、あんまり気に留めてない。
高校生のぼくにも、30万が大金であることは分かったし、自分の家がさして裕福でないことは知っていたから、国公立は受かるところにしか出願しない、と決めていた。
そして、センター試験が終わったあと「国公立受かるから、私立の入学金は入れなくていいよ」と親に言ったのだ。
それでも、親はある私立に入学金を納めた。結果、国公立に受かったので、真実その入学金は全くの無駄金、つまり捨てられたこととなった。
浪人はさせられないという家計事情と、親心があいまった判断であったことだろう。
学納金返還訴訟というのがあって、辞退者に入学金を返還する必要はないという判例が出ているのは有名だ。
それは、入学金が入学できる地位の対価だから、という理屈による。
他にも、一旦は入学を認めて、学籍等が発生しているのだから、そうしたもろもろの手数料だ、なあんて理屈を言う人もいる。
実際に大学で働いてみて思う。
それはいいけど、そういうお金が、30万という大金であるという必然性はどこから生まれているのだろうか?
ぶっちゃけ、そんなものはない、と確信する。
確かに、一旦受け入れるつもりで発生した学籍を取り消す手間とかあるけど・・・一瞬で終わる。
手間賃?人件費?そんなものない。ほぼゼロ。
つまり、ルールのギリギリを狙った既得権であり、単なる金儲けではないか。
そういうの、否定はしないけど、それにしてもウン十万はあまりに不誠実ではないか。
もらえるもんはとりあえずもらっておこう、というような不誠実さは、教育機関としてアリなのだろうか。
ぼくはナシだと思う。
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」は言い訳に使われがち
以下2つの記事の続き
日本の大学は、偏差値で輪切りにされている
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/12/21/202521
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」?
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/12/25/223452
ぼくが「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」という言葉を忌避したくなるのには、実は理由がある。
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」という言葉を大学関係者が使う時、次のように言い訳を伴ってくることが結構あるのだ。
「なんでこんなことまでしなくちゃいけないのか」
→「大学は専門学校ではない」のになんで?/「職業訓練校ではない」のになんで?
→「だから、ここまではする必要ないよね。しなくていいよね」
→「学生の質が変わってきた」「学生の基礎学力が低い」
→「これで学士と呼んでいいのかい」「困ったものだなあ」
こんな風に、やらないことの理由に使われる。
しかも、この言い訳は、最終的に学生の力の無さを批判しがちだ。これがイヤなのだ。
本当は、力がないのはぼくらの方だ。
「質が変わってきた」「基礎学力が低い」
だからなんですか?と言いたい。
進学率が上昇した今、そんなことはむしろ当たり前である。
自分の学生時代とか、出身大学とか、そういう過去や別の場所なんかと比較することに意味はない。
それは単なる思考停止であり、現実からの逃避である。
現実を見よう。目の前の学生を見よう。
そして、目の前の学生のために、やるべきことを愚直にやろう。
「学生の質が変わってきた」「基礎学力が低い」だったら鍛えましょうよ。
その手段には色々あって、手段を行使する過程で、大学は専門学校なの?職業訓練校なの?という疑問を持つことがあるかもしれない。
けれど、大筋・大意は、学生に付加価値をたくさんつけて、卒業させること、ただそれだけですよ。
確かに、昔のあなたほど勉強はできないかもしれない。
けどそれは、伸びシロがたくさんある、ということですよ。
できないって、素晴らしいことじゃないか。分からないってすごいことじゃないか。
これから、いくらだってできるようになる。分かるようになる。
そりゃ、ほんとのエリートは別かもしれない。けど、それ以外の18歳なんて、きっと大差ない。
だから、
若い可能性を目の前にして、自分たちの無力を、学生のせいにするのはやめましょうよ。
ボヤきながらも、前に進みましょうよ、と。
そう言いたくなるのである。
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」?
日本の大学は、偏差値で輪切りにされている
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/12/21/202521
イブからクリスマスにかけて、この記事に、色々と反響をいただいて、感謝している。
Gunosy 砲とやらも初めて体験した。ありがたい。
中でも、
「偏差値50以上の学生はいりません。入試を受けても落とします。優秀すぎます。偏差値40未満の学生だけ来てください。あなたたちを鍛え上げ、立派な職業人として送り出します。」という大学があっていい
この部分に、賛否両論いただいた。
ただ、これは単なる例示である。
上位大学の劣化コピーにおさまるのではなく、それぞれが独自の特徴を出そう、というメッセージを、「偏差値に利用されるくらいなら、逆に利用する」という奇抜な方策に載せて示したに過ぎない。
これに対して「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」というような意見をいくつか頂戴した。
初めから優秀な学生は落とし、あまりできのよくない学生を職業人として鍛え上げよう、というのは単なる例だったのだけど、
これに対する批判は重要な示唆を含んでいると考えるので、取り上げてみたい。
この「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」という意見は、ある側面から見ると、確かに正しいと思う。
ぼく自身、高等教育機関で働く、日本の最高学府で働く、そういう誇りは、持っていなくはない。
しかし、社会的に有意な人材として、立派な職業人を生み出す、ということが、大学の大きな使命であることも、また別の側面としてある。
想像するに(想像でモノを言うのはよくないが)「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」とおっしゃる方は、おそらく、ご自身が比較的高学歴なのではないだろうか。
一方、ぼくの勤務先で、実際仕事として学生を目の前にしていると、大学は高等教育機関だ!最高学府なのだ!なんてことは言っていられない。
最高学府としての大学を否定する気は毛頭ないけれど……現実の問題に向き合い、少しでも前進するためには、形はどうあれ、結局、目の前の学生に何ができるか、を愚直に考えるしかないと思っている。
このとき、大学は高等教育機関だ、というような価値観は、しばしば行動の妨げになってしまうのだ。
そうした悩みの中で、社会的に有意な人材の輩出例として、鍛え上げられた職業人を示してみた。
立派な職業人として鍛え上げる、ということが、大学の役割なのか?と問われると、実際のところよく分からない。
当事者として、言葉に詰まってしまうところもある。
とはいえ、社会の要求として、大学に突き付けられている大事な命題だと、ぼくは思っている。
この感覚は間違っているだろうか。
大学の役割も、時代によって変わっていく。
以下の調査によると、2013年度の大学進学率は、50.8%となっている。
https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/43.html
進学率が50%を越えた今、本当のトップエリート層を除いては、鍛え上げられた職業人として、付加価値をつけて送り出す、というのは、十分に大学が持ちうるミッションだと言えるのではなかろうか。
ほとんどの学生は、普通に働く市井の人として、社会的責任を負うことになるのだから。
本当のトップエリート層を育てるような大学には、また別の考え方が必要だろうが、700を超える日本の大学の中で、そんな法人がどれだけあるだろう。
そうして、時代によって役割を変えていくと、途中で「それって大学がすべきことなの?」という話になるかもしれない。
けれど、個人的にはそれでいいと思っている。
ぼくは、自分の職場が<大学であること>に価値を感じてはいない。
<学生にきちんと付加価値をつけられる機関であること>が、何より大事だと思う。
そして、その存在に意義があるかどうかは、最終的に市場が判断する。
ダメだと評価されれば潰れる、良いと評価されれば生き残る、そんなものは大学ではないと言われれば、大学以外のものに形を変えるかもしれない、それだけのことだ。
1日で9000アクセス
さきほどの記事だけで、1日で9000のアクセスがあった。
それまでは、毎日1〜2人の訪問者がいて、累計アクセスも200ちょっとだった。
たった1記事、1日だけで、桁が変わった。
ブログってすごい。
正直、その威力におののいている。
そして、やはり、偏差値とか学歴とか、そういう話題は、良くも悪くも注目されやすいのかなあ、とも思う。
しかし、感謝。
普通の平の大学職員のメッセージを、9000もの目で見ていただけるなんて。
ありがたい。
ブックマークしていただいた方の意見も、全部目を通してます。
素晴らしいクリスマスプレゼントをいただいた気分。
ありがとうございます。
日本の大学は、偏差値で輪切りにされている
大学で働いていてマズいなと思うことの一つが、教職員が未だに偏差値を気にしすぎていることだ。
大学がそれぞれ独自の特徴を出さなければ生き残れないのだ!
という論があって、どの大学も頑張っているのだけれど、特徴の出し方が、どうも保守的に見える。
なかなか、ある一定の枠(偏差値の序列)から抜け出せない。
偏差値が高い方がエラい、ということになっていて、多くの大学が競って上位の偏差値を目指す、という状態になっている。
するとどうなるか。
例えば、総合大学は日本にたくさんあるが、どれも有名私大のコピーになる。
偏差値が高い方から順に、
A大学(有名私立大学)→B大学(A大学のコピー)→C大学(B大学のコピー)
となってしまう。
コピーと表現したが、誤解を恐れずにいえば「劣化版」ということだ。
上位の大学を超えるために、上位の大学の真似をして、超えて行こうとする。
しかし、上位の大学を模倣するだけでは、その大学を超えられないので、自然と「劣化版」になる。
こうした状況下では、A大学に入る学力があるのに、あえてC大学に入る、という選択肢はありえない。
だってC大学はA大学やB大学の劣化版だから。コピーが原本の魅力を超えないのは当たり前であろう。
学力さえあれば、A大学に入りたい。でも学力がない。だから我慢してC大学に入る。
本当はA大学に行きたかった。そういうことになる。
偏差値で輪切りになっているのだ。
そして、この輪切りになった偏差値に支配された価値観に、日本の大学全体が未だに汚染されている。
理由は、中の人である教職員が、この価値観から抜け切れないからだと考えている。
別に偏差値を否定しているわけではない。一定の評価指標になりうるだろう。
けれど、「偏差値を上げて、人気が出るように頑張ろう!」というのは、自分以外の誰かが作った基準に踊らされているという点で、相当に愚かしい。
偏差値を上げるために、受験科目を少なくする……そうなっては本末転倒だ(これは、もはやほとんどの私立大学がやっている)。
大学は、学生にどんな教育を提供できるか、ただそれだけで勝負すべきだ。
偏差値のような、操作可能な指標に踊らされてはいけない。
以上のようなことは、「偏差値に利用されている」からマズいのであって、逆に「偏差値を利用する」のならば、問題ない。
具体的には、「偏差値50以上の学生はいりません。入試を受けても落とします。優秀すぎます。偏差値40未満の学生だけ来てください。あなたたちを鍛え上げ、立派な職業人として送り出します。」という大学があっていい。
こういうことを、勇気を持って実行できた大学があったとしたら、その大学はもはや、上位の大学のコピーではなくなっているだろう。
(追記)
続きを書きました。
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」?
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/12/25/223452
「大学は専門学校ではない」「職業訓練校ではない」は言い訳に使われがち
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/12/29/160329
大学の先生には、教育と研究に集中する環境が必要
大学で働いていて思うことの一つに、先生に余計なことをやらせすぎじゃないか、ということがある。
余計なこと、と言ってしまうと語弊があるけれど、例えば会議への参加なんかがそうだ。
一口に会議と言っても様々だが、大体、学内にはたくさんの委員会があって、それぞれの学部から先生が1~2名、委員として選出されていることが多い。
専任の先生には、授業の持ちゴマというのがあって、これに加えて、2つ3つの委員を分担して掛け持ちするわけだ。
授業というのは、きちんとやろうと思うと、前後の準備にかなりの時間が必要である。
また、研究に十分な時間を割くことができて初めて、学生の教育に価値を還元できる。
できればそれ以外のことはやりたくない、というのが先生方の本音ではなかろうか。
いわゆる教授会自治のイメージのせいで、大学の先生は、経営の意思決定に関わるのが好きだ、という勘違いをされているように思える。
ぼくの知る限り、そういう先生は少数派だ。
自身の研究の話をしているときや、学生の話をしているときが一番輝いていて、そういう人が、いい先生だと思う。
会議の事前に、職員が内容をレクチャーして、本番の会議の場では先生に喋っていただく、というような場面がままある。
つまり、会議の場では先生が発言して、議事録にも、先生同士で議論され、決定されたかのように記録されるけれど、その実、裏では職員が糸を引いている、というような場合だ。
それなら、初めから職員が自ら、意思決定を行えばいいのでは?と前から思っていた。
だって、実質的に自分たちが決めているのだから。
では、なぜそれをしないのかというと、自分たちに責任が降りかかるのを避けるためではなかろうか。
実は、その方が職員も楽なのである。
「自分たちにはわからない」「先生が決めることだ」と言って逃げる方が楽に決まっている。
失敗しても、先生の責任にできる。
学生のためにも、大学の先生には、教育と研究に集中して欲しい。
そのためには、その環境を職員が整える必要があるだろう。
どうしたら整うのか。
職員が先生に責任を押し付けず、相応の負担を自分たちが負う、という気概を持つこと、がその手始めではないかと考える。
就職活動への違和感は、働き出してから初めて抱いた
今週から正式に、大学生の就職活動が解禁となった。
ところで、個人的に、日本の就職活動は宗教だと思っている。
宗教を持ち出してしまうと怒られるかもしれないが、悪い意味で宗教性を帯びている、ということだ。(宗教をバカにする意図は全くない)
思い出すのは、働き始めて2年目の頃。
ある大学の、都会のサテライトキャンパスに行く用事があった。
一室が就活生に開放されていて、パソコンが完備され、就活のために自由に使えるスペースとなっていた。
たくさんの学生が一様に黒いスーツを身に着け、背筋を伸ばし、キーボードを打つ音がカタカタ響く。
同行していた周りの人は「すごいね。さすがだね」などというようなことを言って感心していた。
しかし、ぼくが抱いた感想はまるで逆で「ひたすら気持ち悪い」というものだった。
ぼくが見た光景は、そのくらい異様だった。多様性が皆無だったからだ。
みんな同じに見えた(実際に外見がそうなのだから、当たり前ではあるが)。
こうした画一的な方法で、多様な人材は採れない。
多様性の担保もなく、真に優秀な人材など採れないはずだ。
なんだかんだ言いながらも、多様性に富んだ優秀な人材より、村社会を荒らさない忠実な社畜が求められているのかもしれない。
つい最近まで、自分もそうした光景の一部だったときがある。
大学を卒業し、実際に働いて初めて、あれは異常だったのだ、という事実に気づいたのだった。
学生時代、自分は大して勉強しなかったくせに、就活生に「君は何ができるの?」と問う採用側、グループディスカッションで真っ直ぐな目でひたすら他人の話に頷く人、アツい口調で夢を語る社員、なぜか新卒を逃すとエントリーできない一括採用……全てがむなしい。
簡単に言うと、茶番だったのだ。
でも、茶番だろうがなんだろうが、学生はその情勢に合わせないといけない。
そうでないと生きていけないから。これは非常につらいものがある。
思うに、優秀な人は、茶番だと分かっていながら、その茶番に合わせていたのではなかろうか。
一方、ぼくのように優秀でない者は、その時はそうした茶番が真実だと信じ、支配される「就活!自己分析!自己PR!業界研究!」の空気に染まらざるを得なかった。
おい、今までグウタラ過ごしてきたくせに、急にどうしたんだ俺よ、と思わないではなかったが、そんなもんだと、疑問など持たなかった。
そして、そうした学生の方が多数派ではないか。
これから就活が始まる学生さんに伝えたい。
就活はタチの悪い宗教と同じであり、基本的には茶番である。
面接官のオッサンより、あなたたちの方が遥かに優秀だ(と思っていい)。
だから、仮に何十社も落ちたり、なかなか内定が出なかったりしたとしても、あなたたちは悪くない。
間違っても自殺などしてはならない。
世の中が変わるまで、もう少し辛抱しよう。
悪いのは流動化していない雇用であり、実現されていない同一賃金同一労働であり、既得権を手放さない正社員労組なのだ。
そして、「こんなの茶番だよね」とバカにしながら、上から目線で就活を乗り切って欲しいと願っている。
(ぼくはフェアな世の中のために、一刻も早く自身の既得権を手放したい。そのために努力したい。)