「文系」「理系」に分けたがるという病
ぼくらが自分や他人を形容するとき、「文系」「理系」という言葉をよく使う。
「文系ってそうなんだ」「私は理系なので」などという感じである。
ところで、「文系」「理系」ってなんだろう。
結局のところこれは、大学入試の時の分類を、そのまま引きずっているだけなのではないだろうか。
文学部や法学部、経済学部は文系で、医学部や理学部、工学部は理系、というアレである。
ぼくらが(もう高校生でもないのに)「文系」「理系」という言葉を使うとき、それは予備校が作った指標に未だ縛られている、ということとイコールではないか。
ここで言いたいのは、自分以外の誰かが作った指標に縛られると、その範囲内でしか生きられなくなるんじゃないか、という問題提起だ。
自分のことを思い返すと、ぼくは数学が好きだったのに、「文系」クラスに入ってから、どうも数学が苦手になった気がする。
また、「文系」クラスだったのに、なんで英語ができないのか、と悩んだこともある。
冷静に考えると、別にそれでよかったのではないか。
ぼくが好きだったのは、数学と国語と倫理である。英語と生物は嫌いだった。
こんな好みは、「文系」「理系」いずれにも分類されない。
なのに、「文系」クラスに入ってから、「文系」のイメージに自己が規定されてしまった気がする。
「文系」なのに、英語が嫌いでもよかった。「文系」なのに、数学が好きでも、それは大切なことだった。
そのまま、自分の<好き>を伸ばしていくべきだったのだ。
経済学部で微積ができないのは困る。心理学科でも統計を使えないといけない。工学部でも、文章を書く力が必要だ。
こうしたことは、しばしば指摘される。
すなわち、大学での学問に、「文系」「理系」の別など、本質的にはないのだと言える。
働いてみれば分かるが、必要なことを必要なときに学ぶ、ということが何より大切なのであって、「文系なので統計解析はできない」「理系なので文章は書けない」などという逃走は許されない。
「文系」であろうが「理系」であろうが、そんなことは関係ない。
その意味で、いい年をした大人が未だ使ってしまう「文系」「理系」という言葉は、若い才覚をある一定の範疇に収めてしまうから、とても罪深い。
大学側も、「文系」「理系」という固定指標から解放されるべきだ。
自分以外の誰かが作った指標に縛られることなど、早期にやめにしたいものである。
教授会のあり方より、トップの資質の方が問題
前回の記事では、
・教授会の権限は、そんなに強くないこと
・改革が進むかどうかは、トップの意思次第だということ
の2点を述べた。
(前回の記事)教授会の権限は、そんなに強くない
http://sidaisyokuin.hatenablog.com/entry/2013/11/22/222752
では、むしろ問題なのは、中教審の素案で、権限を強化すると言及されているトップ(学長)の資質であると言えるのではないか。
本当は、教学のトップが学長、経営のトップが理事長、という役割分担があるのだが、多くの大学では学長が実質的に経営も取り仕切っている。
あるべき論はともかく、そうなっている現状をベースに考えると、権限を強化されるトップ(学長)は、本当にトップとして適当なのか?という問題が浮き彫りになる。
なぜなら、学長は、選挙によって選ばれることが多いからだ。
ぼくの勤務先でも、学長は投票によって選ばれる。
例えば、x学部の教授として教育や研究を行っていた先生が、ある日突然「あなたが学長です」と言って、経営のトップに就くわけである。
当然のことながら、その先生はx学の世界ではプロフェッショナルであるが、経営に関しては完全に素人である。
中にはセンスのいい人がいて、「お、今回の学長、経営者としていい感じだ」なんてこともあるけれど、当然逆のこともある。
よく考えたら、ある専門分野を一生懸命探究し、教育者・研究者として頑張ってきた先生を、「はい、今日からあなた経営者です。よろしく」と学長に指名するなんて、むちゃくちゃではなかろうか。
その先生に経営のセンスがあるかどうかが、運次第となってしまいかねない。
このやり方では、経営者たる大学のトップとしての資質など担保されない。
よく言及されるのは、教育は教授会(学長)、経営は理事会(理事長)という役割分担によって、教育も経営もプロがやる、という両輪型だが、実際にはトップが2人いると舵取りが難しい。
また、職員の中には、教員に対抗するパワーバランスの問題として、理事会の強化を話題にする人もいる。
だからたぶん、大学のトップには、教育と経営が高いレベルでブレンドされた人が就くのが一番いいのだと思う。
教員だ、職員だ、という枠組みを超えた<「教育」×「経営」人材>。
これを山本眞一先生(桜美林大学)は、「大学経営人材」と呼んでいる。
ところで、企業でも、経営者の交代はある。交代した経営者の経営がうまくいかない、なんてこともあるだろう。
だが、そもそもその選出方法が、社員の選挙による、なんてことがあるだろうか。
よく言えば民主的なのかもしれないが、ひとりの従業員の立場から見えるものと、経営者としての立場から見えるものは、本来全く違うはずだ。
従業員の多数決によって選ばれた経営者だと、その施策も総花的にならざるを得ないんじゃなかろうか。
しかも、総花的施策の中身は、投票してくれた教職員に対するものとなってしまう可能性すらある。
だから、もしも選挙でトップを選ぶなら、国や自治体の選挙と同様、その受益者の投票によるべきではないか、と考える。
その場合、投票権は教職員ではなく、学生が持つべきものとなるだろう。
教授会の権限は、そんなに強くない
中央教育審議会が、教授会の権限を限定する素案を示した。
こうした情報が出て、以下のような記事が上がったりすると、教授会に対するイメージが悪くなり、世間に誤解されるのでは、という懸念がある。
具体的には、「社会を知らない専門バカの大学の先生が、寄り集まって改革の邪魔をしている」というような、暗い負のイメージだ。
だから、少なくともぼくが勤務する大学では、はっきり言って教授会の権限ってそんなに強くない、ということを書き記しておきたい。
そして、私学はわりと同じじゃなかろうか?
なお、国立は教授会の権限が強いと聞いたことはある。もしかしたら、国立大学を念頭に置いた素案なのかもしれない。
以下は、この中教審の素案に関する記事である。
教授会の権限を限定 中教審素案、学長主導の大学改革促す(日本経済新聞 11/19)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1903Z_Z11C13A1CR8000/
大学のガバナンス改革を議論している中央教育審議会の組織運営部会は19日、従来よりも教授会の権限を限定する提言素案を示した。教授会の審議事項を、教育課程の編成や学生の身分に関する審査、学位授与などと具体的に規定した。
教授会の役割を教育研究関係に絞ることで、人事や予算配分など経営の重要事項の決定権限は学長にあることを明確にし、学長主導の大学改革を促す。年内に提言をまとめ、文部科学省が法令を改正する。
学校教育法は「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と規定しているが、重要な事項の解釈が曖昧なため「教授会が大学経営にも影響を与え、学長主導の改革を妨げている」といった声が根強かった。(以下略)
ちなみに、中教審というのは、実は単なる文部科学省の諮問機関に過ぎないわけだが、その答申が基本的には国の文教政策に反映されるので、取り上げられやすいのである(と、ぼくは理解しているのだが、間違っていたら指摘いただければありがたい)。
上記の記事には、「教授会が大学経営に影響を与え、学長主導の改革を妨げている」といった声が根強かった、とあるが、わが勤務先では、そんなことはない。
わが勤務先では、大学の重要な決定は、学長・学長補佐(副学長)・学部長・事務局長・各セクションの事務局部長、あたりで構成される会議でなされている。
ただし、その原案は、結局は学長・学長補佐(副学長)・事務局長レベルで考えられているので、トップダウンに近い。
あえて言えば、提案された原案は、重要事項であればそれぞれが学部に持ち帰って検討する(「持ち帰り」)の形をとることが多いので、
最終的に多数決になってしまいがちだ、という問題はある。
このやり方だと、民主的ではあるものの、トップに「これは絶対やるんだ!」という強い意志がなければ、多数決によって最終的に微妙な経営判断に落ち着いてしまうことは確かにある。
それを、教授会の抵抗、改革の妨げ、と呼ぶこともできるとは思う。
だが、逆に言えば、教授会が改革の妨げになるかどうかは、トップ次第ということだ。
トップが「これは絶対やるんだ!」という強い意志を持ったことに対して、教授会が最後まで反対することは現実に難しい。
というのも、教授会というのは、それぞれの学部における教育・研究に強い権限を持ってはいるけれど、学部の運営を単独えるわけではないからだ。
学部の教育・研究システムは、大学全体のシステムに相乗りして初めて成り立っている。
入試やキャリア支援や、もろもろ全て、それぞれの学部で独自に面倒を見て、自分たちでお金を稼いで、予算を組むところまで自立しているのなら、強硬に反対することは可能だけれども、そうではない。
実際に、諸星裕先生(桜美林大学)はその著書の中で、大学の意思決定にあたり、「うちの学部はやりたくない!」といったように教授会の反対が根強い場合、「じゃああなたの学部は、全部自前でやって利益を出して、入試の広報からキャリア支援まで、何もかも学部独自で運営してくださいね」と言うと、それ以上反対できないと指摘している。
繰り返しになるが、全学的な経営判断において、教授会の影響範囲は限定的で、大抵なことはトップの意思次第で可能ということである。
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なお、素案では、教授会(学部)で採用等を決めている教員人事について「配置」と「選考」を分けて考えることが提案されていて、この部分については、大いに賛成したい。
「選考」は教授会でやったらいいけど、「配置」は、大学の強みを考えてトップが決めよう、ということだ。
定年退官したポストに自動的に同じ学問分野の後任が就く、というようなやり方だと、大学の資源を効率的に配分できませんと。全学的なミッションに沿ったデザインができませんよと。これはその通りだと思う。
素案の一次資料は、以下に掲載されている。ご参考まで。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/035/siryo/1341577.htm
立命館大学の「-R」騒動に見る立命らしさ
Twitterに、「未来を奪う大学 立命館@minus_r」なる者が登場し、禁煙キャンペーンを初めとする立命館大学の施策に異議を唱えている。
【画像】立命館大学の禁煙キャンペーンにネットで批判殺到 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138442027875057301
どうも、立命館大学が学内全面禁煙を打ち出し、それを示したノボリに「空気の読める大人になろう」等というコピーを貼り付けたことが発端になっているようだ。
これに怒った複数の学生が、「+R」(プラスアール)をもじって、「-R」(マイナスアール)とし、上記のアカウントで異議を唱えているように見て取れる。
これが実に立命っぽい、と感じた。
「+R」を「-R」としてしまうセンスなど、傑作である。
立命っぽい、などと言ってしまうと怒られてしまうかもしれないが、部外者からはそう見える。
もちろん、非常勤講師の雇用の問題や、教職員の一方的な一時金カット、退任する理事長の退職金がいつの間にか2倍に、等、立命館大学にも以前から色々と問題があるのは確からしい。
裁判沙汰になっている事案もある。
しかし、立命館には、そうした負の情報がわりとオープンになる、という特徴がある。
例えば、昨年には『立命館の再生を願って』(鈴木元著)という、元職員による現体制を批判した告発本なんかも出ている。
内容の是非はともかくとして、こうしたオープンマインドは、立命館の優れた点だと思う。
大学というところは閉鎖的なので、悪い情報はあまり表に出ない。
さらに、今回は、何より学生自身がコトを起こしている(ように見える)点が素晴らしい。
大学で働くひとりの職員として、「大学は、学生とともに作り上げるもの」という考えがぼくにはある。
ぼくが立命館の執行部なら、こんな風に学生の声が上がることに感謝する。
そして、大学をともに作り上げるキッカケとして利用する。
一方的に押さえつけることは得策ではない。
「これを機に、一緒に大学を作っていこう!」と呼びかけた方がよい。
その積み重ねで、大学の歴史が出来上がるのではないか。
学生は、なかなか大学に対して声を上げてくれるものではない。
「違うな」と思うことがあっても、面倒だししんどいから、わざわざ形にはしない。
そして、「違うな」が積もりに積もったら、静かに去っていく。
それを避けるために、各大学は学生の声を回収できる仕組みづくりに腐心している。
だから、こんな風に、去っていかずに、声を上げてくれることは、とてもありがたいことだ。
学生にとって、声を上げることに、大きなメリットはない。
むしろ、場合によっては、批判されたり圧力をかけられたりするかもしれないという意味では、デメリットの方が多いと言える。
それでもやる、というその志がすごい。
たぶんこの学生は、立命館大学のことがきっと好きだ。
立命館の、コトを起こした学生のみなさんには、その志に心から敬意を表し、エールを送りたい。
「教育については、誰もが何か言いたくなる」問題
ここ最近、学力試験を廃止しようとか、1点刻みの試験ではなく、総合的に評価できる達成度テストを導入しようとか、主に大学の入学者選抜に関する提言が、国の諮問会議から色々と出ている。
その内容について思うこともあるが、内容よりも気になるのは、教育問題(特に大学入試)に対する世の人々の向き合い方だ。
一言でいうと、「誰もが何か言いたくなる」んだよなあ、ということ。
良く言えば関心が高いが、悪く言えば無責任だなと。
特に大学入試の話題となると、その盛り上がりたるやすごいものがある。
ツイッターとかSNSとか、せいぜい自分の分かる範囲でしか見ていない、というバイアスはあれど、一般に「教育については、誰もが何か言いたくなりがち」とまでは考えてしまって差し支えないのではないだろうか。
このように、「誰もが何か言いたくなる」のはなぜなのか。
偏差値だとか学歴だとか序列だとか、そういうトピックがみんな割と好きだ、ということはあるかもしれない。
しかし、最大の要因は、「誰もが経験したことだから」ではなかろうか。
日本というのは非常に恵まれていて、ほとんど誰もが、一度はこの国の教育システムに放り込まれる。
国公私立の違いはあれども、義務教育を受け、ほとんどの人が高校に行き、さらにその中から半分が大学へ行く。
大学まで行く人というのは基本的にリテラシーが高くて、教育について何か一言発言するくらいのことは余裕でできる。
だから、何か言ってやりたくなる。
自分が経験したことだから。
なんとなく、そのことについてよく知った気になっていて、なんか言えそうな気がする。
でも、しょせんそれが、経験に縛られた発言に過ぎないということを忘れたくない。
例えば、「自分が学生の時は~」云々と言ったところで、進学率が30%の世代と、今とでは、大学の役割も全く違うのだ。
批判的な意見の中には、代案を出さないものもある。
じゃあどうしたいの?
まさか、未来永劫このままでいいと思っているの?
そう言いたくなる。
今のままではダメだ。変えていこう。どう変えていくのか?
ああしよう。いや、こうしよう。いやいややっぱりこうだろう……。
そういう前向きな議論をしたいものである。
自己紹介
私は、西日本の私立大学で働く職員です。
年齢は20代後半です。
新卒で入職し、教学系の部署を2か所経験しています。
このブログでは、大学のこと、高等教育のこと、大学職員の待遇のことなど、
いろいろと綴っていきたいと思っています。